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“それは主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのために、あらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時まで天にとどめておかれねばならなかった。”(使徒行伝3:20、21)
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The
second personal coming
of Jesus

If Jesus has been with the church
for 2,000 years,
why did he promise
to come again?
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主が、ある目的のために、いつか、何らかの手段で再び来ることを弟子達に知らせようとしたことは、聖書に親しんでいるすべての人が信じ、また、認めることである。事実、イエスは“見よ、私は世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。”(マタイ28:20)と語り、その霊と言葉によって、主はいつも教会と共に居て、聖徒を導き、教え、慰めの支え、そして苦難の中にいる彼等を励まし続けている。
しかし、教会はあらゆる面に於て、主の知識と主の絶えざる保護と愛とを認めていても、なお、約束された主の人格再臨を切望しているのである。それは、主が、“そして行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを私のところに迎えよう。”(ヨハネ14:3)と語った時、主は確かに人格再臨のことをさしたからである。
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Pentecost
was NOT
the second advent. |
ある人々は、これを、ペンテコステに聖霊が降臨することをさしていると言い、また、他の人々は、エルサレムの滅亡をさしていると言っている。しかし、これらの人々は、ペンテコステの60数年後に、そしてエルサレムの滅亡26年後に書かれた聖書の最後の書物、黙示録に、かつて死に、そして今なお生きている方が未来の出来事について“見よ、私はすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。”
と言っている事実を見のがしている。そして霊感を受けたヨハネは、それに答えて“主よ、来りませ”と言っている。(黙示録22:12、20)
多くの人々は、罪人が悔い改めるとキリストの再臨の一部となる。だから、世の中すべての人が悔い改めるまで主は再臨の過程を続け、そして、その時、主は完全に再臨すると考えている。
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At
the time
of our Lords second presence, the world will be far from converted
to God.
Buddhism
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これらの人々は、明らかに、これに関する聖書の証言を忘れている。聖書は、主の再臨の時には、世の中は神に帰るどころか、その全く反対だと語っている。
“終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は神よりも快楽を愛する者となる。”(Ⅱテモテ3:1~4)
そして悪人と詐欺師とは人を惑わし、人に惑わされて悪から悪へと落ちてゆく(13節)彼らは、主の小さき群になされた特別な忠告を忘れている。
“あなたがたが、放縦や泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけない時、その日がかわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。”(ルカ21:34、35)
また、人類が主の再臨を見る時、“地上の諸民族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。”(黙示録1:7)と言われているが、これが罪人の悔い改めを示していないことは明らかである。すべての人が罪の悔い改めを嘆くであろうか?それとは反対に、もしこの言葉が、ほとんどすべての人が認めているように、地上の主の再臨のことを言っているとすれば、地上のすべての人が主の現われるのを喜ぶわけではないと教えているに外ならない。もしその時、すべての人が悔い改めるなら、すべての人は喜ぶはずである。
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ある人々は、実際の主の再臨と存在とを期待してはいるが、それははるかかなたの未来の出来事であるとしている。すなわち、現在の状態の中での教会の努力によって、世界は改心させられ、その後で一千年期が登場するとしている。
彼らは、世界が改心する時、サタンはしばられ、主を知る知識が全地に満ち、人々は戦いのことをもはや学ばず、その時教会はその業を終る。そしてその偉大な困難な仕事を教会が成し終った時、主は地上の諸問題を取り去り、信じる者と罪人とにそれぞれ報いると主張している。ある聖句は、部分的に取るなら、この見解を支持しているように見える。
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しかし、神の言葉と計画を全体として見るならば、これらすべての聖句は全く反対の見解を支持していることが分るであろう。すなわち、その見解とは、キリストは世界の改心以前に来て、世界を改心させる目的のために支配するということ、教会は今、試されつつあるということ、そして勝利を得る者に約束された報酬は、彼らが栄光に輝いた後に、主イエスと共に支配を分かちあうことであるということ。
そして、それこそ神が定めた世界を祝福し、主を知る知識がすべての被造物に及ぶことを可能にする手段であるということである。これが主の特別な約束なのである。――“勝利を得る者には、私と共に私の座につかせよう。それはちょうど、私が勝利を得て、私の父と共にその御座についたのと同様である。”(黙示録3:21)“彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。”(黙示録20:4)
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Witnessing
to the world
does not imply
the conversion
of the world.

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千年時代が終るまで主は再臨しないと主張する人々によって特に信頼されている二つの聖句がある。それに注目してみよう。一つは、“この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。”(マタイ24:14)
である。彼らは、これを福音時代が終る前の世界の改心について語っていると主張する。しかし世界に宣べ伝えるということは、世界を改心させることを意味していない。この聖句はどのようにして、その宣教が受け取られるかについては何も語っていない。この宣教は既になされている。
1861年に聖書教会の報告は、地上のすべての人々が、それを受け取ったという訳ではないが、福音が地上のすべての言葉で出版されたことを示している。確かに、生きている16億の半分は、イエスの名を聞いたことさえないのである。しかも、この聖句の状態は成就されている。すなわち、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられたのである。
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What
is the
main object
of the gospel now? |
使徒は(使徒行伝15:14)現在の福音の主なる目的は、キリストの御名を負う民(勝利者となる教会)を選び出すことであると語っている。主の再臨の時、彼らは主と一体となり、キリストの名を受け取るのである。現在の世界への宣教は副次的な目的なのである。 |

"At [Gods]
right hand"
not a location,
but authority
and power.

King Charles II
on his throne |
もう一つの聖句は、“私があなたのもろもろの的をあなたの足台とするまでは、私の右に座せよ。”(詩110:1)である。この聖句に関するあいまいな、漠然とした解釈によれば、教会を通して、すべてのものを従わせる仕事が達成されるまでキリストは天のどこかの実際の場所に座っていて、それが達成された時、支配するために来るということであるらしい。これは誤解である。
ここで述べられている神の御座は実際の場所ではなく、その最高の権威と支配を示している、そして、主イエスはその支配を分かったために高められたのである。パウロは、“神は彼(イエス)を高く引き上げ、すべての名にまさる名を与えられた”と言明している。神は彼に父に次ぐすべてにまさる権威を与えられていた。
もしキリストがすべての的をその足台とする(従わせる)まで実際の場所に座っているならば、当然、彼はすべてのものが従うまでは再臨することができないことになる。しかし、もしこの聖句の中の“右”が、定められた場所と座席ではなく、私達が主張するように、力と権威と支配を意味するならば、この聖句は彼が与えられた力によって“すべてのものを従わせる”ために来ると教える。(ピリピ3:21)
他の聖句と決して矛盾しないであろう。例えば、ウイリアム皇帝はドイツの王座についている、と私達が言う時、王の椅子に座っていると言っているのではない。事実、彼はめったに王の椅子には座らないのである。私達が、彼が王座についていると言う時、それは、彼がドイツを支配していることを意味するのである。右というのは、最高の支配者に次ぐ卓越した最も重要な場所、位置を意味する。こうして、ビスマルクはドイツの王によって権力の右に高められ座についた。
そしてヨセフはエジプトの国でパロの右の座についた。――文字通りにではなく、慣例的なことばのあやである。カヤパに対するイエスの言葉は、このことと一致している。“あなたがたは間もなく人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。”(マタイ26:64)彼は再臨する時、右に座しているであろう。そして千年時代の間また、永遠に右に座し続けるであろう。
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| The
first advent REDEEMS. 
The second advent RESTORES. |
初臨と再臨の関係
神の現わされた計画を更に調べると、初臨と再臨と両方の目的をより広い見地から眺めることができる。私達が記憶すべきことは、両方の出来事は一つの計画の部分として、かかわっていることである。初臨の特別な目的は、人類を救うことであ
り、再臨のそれは、救われた者を回復し、祝福し、解放することである。すべての人のあがないとしてご自分の命を捨て、その犠牲を父にささげるために、私達の救い主は天に昇られ、こうして人間の悪のための和解を成し遂げられたのである。彼はしばらくの間とどまり、“この世”の君が悪の支配を続けることを許した。
それは“花嫁・子羊の妻”が選ばれ終る時まで許されるのである。彼らは、そのような誉れにふさわしいと見なされるためには、現在の悪の世界の力に打ち勝たなければならないのである。その時、主の犠牲によって確かなものとされた偉大なる祝福が人類の世界に与えられ始め、主は地上のすべての家族を祝福するために現われるであろう。 |
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確かに回復と祝福は、あがないの代価が救い主によって支払われた時、すぐに始まることが可能であったはずである。そうならば、使徒たちが期待したように、メシヤの初臨と再臨は一つの出来事となり、支配と祝福がすぐに始まったであろう。(使徒行伝1:6)
しかし、神は“私達――キリスト教会――のために更に良いものを、あらかじめ備えて下さっているので”(ヘブル11:40)キリストの支配が、その苦しみとこの19世紀間によって、へだてられているのは私達の利益のためなのである。
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The
period between
the advents is for
the development
of the church.
The selection
of the church... |
初臨と再臨の間、すなわちすべての人のためのあがないと、すべての人の祝福との間の期間は、キリストの体である教会の試練と選びのための期間である。さもなければ、これらは一つの降臨で済んでしまい、千年時代の間に主が再臨される時行われる仕事は、イエスの復活に続いたであろう。
いやむしろ再臨の仕事が初臨のすぐ後に続くというよりも、もしエホバが“小さき群”“キリストの体”の選択を目的としなかったならば、初臨は初臨の時に起こらず再臨の時に起ったであろう。すなわち、初臨と再臨は一つになったであろうと言ってもよい。
なぜなら、神は6000年の間の悪の許容を計画されていることが明白であり、また、すべてのものの清めと回復が7000年目の間に達成されることになっていることも同様に明白であるからである。
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The
reason for
the apparent delay in blessings. |
こうして理解されるように、罪人のための犠牲とあがないとしてのイエスの来臨は、祝福と回復の時が、彼の“相続者”の“小さき群”の選択に先だって、それを可能にするのに、ちょうどよい長さであった。
これは、ある人々にとっては、あがないに備えられ、約束された祝福を与える神の側の明らかな遅れであるように受け取られるであろう。栄光の目的であるあがないの代価は、人間が期待するよりもはるか昔に提供されていたけれども、祝福は定められた時に、最初に計画された通りに必ず来る。
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The
Churchs mission is
to witness.
God has not yet even attempted
the worlds conversion. |
使徒は、私達に、イエスがその昇天から回復の時の始まりまで、つまり千年時代までの間、ずっと地上を離れて天にいると告げている。――“このイエスは……万物更新の時まで天にとどめておかれねばならなかった。”(使徒行伝3:21)
聖書がこのように、主の再臨の目的が万物の更新であること、主が現われる時には、国々は改心するどころが、怒り、反抗することを教えているのだから、私達は、教会がその宣教の達成に失敗するか、神の計画が挫折するか、さもなければ、私達が主張し、示してきたように、教会は現在の世界の改心を期待しているのではなく、すべての民にあかしをするために福音を宣べ伝え、未来の偉大な働きのために教会自身を神の導きのもとに準備することであることを認めざるを得ない。
神はまだ、世界の改心のために、その力をいかなる手段によっても使い尽くしてはいない。いやそれどころか、神はまだ世界の改心を試みてさえいないのである。
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A
future restitution
for every man, woman and child...

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このことは、ある人々にとっては奇妙に聞こえるかも知れない。しかし、そのような人々は、もし神が世界の改心を試みたとしたならば、著しくそれに失敗しているということを考慮するがよい。なざなら、今まで見てきたように、地上の何十億のうち、ほんの少数の者だけが、その人によって救われねばならない唯一の名を知的に、かつて聞いたことがあるにすぎないからだ。
私達は、先に主だった宗派の――バプテスト派、長老派――その他――いくつかの見解と教えを紹介した。彼らの主張は、神は世界の中から教会である“小さき群”を選び出しつつあるということである。彼らは、神がこの教会を選ぶ以上には何もしないと信じている。しかし、私達は、聖書が神の計画の更に深いステップを教えているのを知っている。――それは教会が完成し栄光に輝く時、選ばれた教会を通して達成されるべき世界の回復である。
この福音時代の“小さき群”、勝利者は、“その子孫”の唯一の体であって、それによってすべての地上の家族は祝福されることになっているのである。
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エホバは6000年の間、世界を改心させようと試みてきたが、その間中、ずっと失敗に終っていると主張する人々は、そのような見解と、神のすべての目的は達成されるであろうということ、“神の言葉は、むなしく神に帰ることなく、神が命じ送ったことを果たす”(イザヤ55:11)という聖書の確証とを一致させるのに困難を見出すにちがいない。
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