世々にわたる神の計画

 

第 10 章

 

霊性と人性との区別

 

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一一般的誤解

一一地的または人間的性質と天的または霊的性質

一一地上の栄光と天上の栄光

一一霊的存在者に関する聖書の証言

一一致死性と不死性

一一致死性のものが永遠の命を持つことはできるか?

一一恩恵の授与における正義

一一検討された仮定的真理

一一様々な完全性

一一神の主権

一一人間に対する摂理は満足のいく定めである

一一キリストの体の選定

一一その性質の変化はどのようになされるのか?

 

 

Church1C.jpg (6458 bytes)      キリスト教会は一般に、人類に関する神の計画か、以前の状態――すなわち、エデンで失われた人間の完全性――への回復を意図していること、及びキリスト教会はこの計画の例外として、人性から霊性への性質上の変化を受けるものであることを理解しないために、霊的性質に達しない者はだれも救われないと考えている。

   しかし、聖書は地上のすべての家族への命と祝福と回復の約束を示している一方、福音時代の間に選ばれた教会に対してのみ性質の変化を約束しているのであって、それ以外の人にそのような希望が与えられているとは決して教えていない。

Family8.jpg (66939 bytes)      もし、人類の大多数が罪の結果である堕落、弱さ、痛み、悲惨、死のすべてから救われ、堕落する以前に享受していた人間の完全性への状態へと回復されたなら、人類は福音時代の特別な高い召しの下に神性を授けられる者と全く同じように、本当にかつ完全にその堕落から救われるのである。
What is
a perfect man?

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     完全な人間を形成するものが何であるかを正しく理解しないこと、致死性と不死性という言葉への誤解、正義に対する誤った観念が、このような誤りに導き、容易に理解され得る多くの聖句を不可解なものにする。

   聖書的裏付けが全くないにもかかわらず、一般に採用されている見解は、かつて、おの地上に完全な人間が存在したことはなく、完全に見える人間も、人間性を部分的に発達させたにすぎず、完全に達するためには霊的なものにならなければならないということである。

There were only two perfect men – Adam and Jesus.
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     聖書はかつて完全な人間がたった二人だけ存在したことを教えている――それはアダムとキリストである。アダムは神のかたちに創造された。ということは、理性、記憶、判断、意志などの精神的な力、および正義、あわれみ、愛などの道徳的性質において、神に似たものとして創造されたということである。

地から来て、地に属したアダムは、その程度と範囲には大差はあっても、霊的存在者と同種類の性質を持つ上のかたちだったのである。さあ、われわれは互いに論じようと堕落した人間に神が語られるほどに人間は神のかたちに似ているのである。

Adam was made ruler over
all earthly things...

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...a little lower
than the angels.

     エホバがすべてのものの上に支配者であるように、人間は地に属するすべてのものの上に支配者なのである――“われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めさせよう。(創世記126

   モーゼは、神は造った――造り始めたのみならず完成した――人間を認めてはなはだ良かったすなわち完全であったとされた、と私達に語っている。なぜなら、神の目には完全性に欠けるものがはなはだ良いはずがないからである。

     造られた者としての人間の完全性は、詩篇858で表わされている。ただ少し人を天使よりも低く造って、栄えと誉れをこうむらせ、これに御手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも

"All flesh
is not the same;
but there is
one kind of flesh
of men, another
flesh of beasts, another of fishes, and
another of birds."
I Corinthians 15:39

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   一部の人々によって、聖書は進化論説と一致しているということが提言されてきた。それはヘブル27に出ている少しという言葉を、天使よりも程度において少し低くではなく、少しの間低くという意味に解釈するためである。しかし、このような解釈に対しては権威も理由もない。

   これは詩篇85からの引用であるが、ヘブル語とキリシャ語の原点を比較すれば、この意味に関して、疑問の余地を与えない。それは、天使よりも程度において、少し低くという意味であることは明確である。

 

 

 

 

 

 

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     ダビデは、詩篇の中で人間の最初の状態のことを語って、神は人間を、神のかたちにし、地上の王とするという最初の計画を捨てたのではなく、人間を覚え、救い、その同じ状態を再び回復するであろうことを預言的に暗示しているのである。

   使徒パウロは(ヘブル27)この同じ事実に注意を喚起している。すなわち、神の最初の目的は、捨てられてはいないこと、本来、威厳のある完全な地上の王であった人間は、覚えられ、報いられ、回復されると語っている。それに加えて使徒は、私達はこの約束の回復をまだ見ていないけれども、その完成に向って、神がとっている最初の段階を確かに見ると語っている。私達は、イエスが完全な人間としての栄光とほまれを冠として与えられたのを見る。

   それは、神の恵みによって、イエスが適切なあがない、すなわち代理として、すべての人間のために死を味わい、失われたすべてのものを人間に回復する道を開いたのである。最も細部にわたって良心的な翻訳者の一人Rotherham はこの節を次のように訳している。

人が何者だから、あなたは彼を覚えられ、人の子が何者だからあなたは彼をかえりみられるのか?あなたは彼を天使達より少し低く造り、栄光とほまれとを冠として与え、彼をあなたの御手のわざの上に置かれた。

"A little lower" does not mean
a little less perfect.
     程度において少し低いということを、完全性に欠けるという意味に取るべきではない。一つの被造物が完全であるとしても、他の被造物より低い存在であり得る。例えば、完全な馬は、完全な人間より劣ると言える。生物にも無生物にも様々な種類の性質がある。それを示すために次の図を掲げる。

 

天的又は霊的
存在の階級 
地的又は動物
の階級 
植物の階級 鉱物の階級
SpiritF.jpg (1550 bytes) Bird3GeeseF.jpg (2699 bytes) Tree1F.jpg (3217 bytes) EmeraldF.jpg (2559 bytes)
人間 樹木
―――― 獣類 潅木

―――― 鳥類 草類
天使 魚類 苔類

 

Perfecting a nature does not
change a nature.

There is
a variety
in perfection.

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     各々の鉱物は純粋であっても、金は最高の位置に分類される。植物の階級の各々が完全であろうとも、それらは性質や階級が異なっている。動物も同様である。もし各々の種族が完全だとしても、様々な種類の違いは存在する。なぜなら、性質* の完全性に達することは、性質を変えることにはならないからである。霊的存在の階級もまた、完全であっても、

* 性質(nature)という言葉は、しばしば便宜的に使われる。例えば、犬はどう猛な性質を持つとか、馬はおとなしい性質を持つとか、悪い性質を持つとか言われる場合である。しかし、このような用法は、単に、他のものとの比較において説明される性質を意味するのであって、厳密に言えば、正確な意味の性質とは関わりがないのである。

There are
distinct differences of each nature.

The highest grade
of mineral
is a little lower than the lowest grade of vegetable, because
in vegetable
there is life.

     性質または種類において、各々に高いとか低いとかの関係に立つ。神の性質は、すべての霊的な性質の中で最も高く、優れている。キリストは復活に際して、ちょうど神が天使より優れているように、完全な天使より更に優れたものとされた。(ヘブル135

上の図で分類された階級がはっきりと区別されている一方、それらの比較は次のように定めることが出来る。鉱物の最高階級は植物の最低階級より劣っている、または低い。なぜなら、植物には命があるからである。そして、植物の最高階級は動物の最低階級よりも少し低い。

   なぜなら、動物の命は、最も低い形のものだろうとも存在を認識するに十分な知性を持つからである。同様に、人間は動物または地的存在の最高位置を占めるが、天使より少し低いのである。なぜなら、天使は霊的または天的存在だからである。

There is
a great contrast between sinful
and restored mankind.

 

 

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    罪によって堕落した人間と、神が自分のかたちに造った完全な人間との間には驚くべき相違がある。罪は次第に人間の性格はもちろんのこと、その容貌をも変えていった。無知、不道徳。一般的堕落によって繁殖した人類の大部分は、神のかたちがほとんど跡かたもなくなるほどに、その人間性を曇らされそこなってしまった。

   道徳的、知的な質はいじけ、過度に発達にた動物的本能は、もはやより高いものによってバランスをとることができなくなってしまった。人間は肉体的体力を失い、すべての医学的科学の助けをかりても、その平均寿命は約30年になってしまった。最初は、同じ罪の下に、人間は930年も生きたのである。

   しかし、このように罪とその罰である死によって汚れ、堕落したにもかかわらず、キリストの千年支配の間に、その支配によって、人間は最初の精神と体の完全性へと回復され、栄光とほまれと支配権とを回復されることになっているのである。

   キリストによって、キリストを通して回復されることになっているものは、アダムの反逆を通して失われたものである。(ロマ81819)人間は、地上のパラダイスを失っただけで天上のパラダイスは失わなかった。有罪の宣告の下で、人間的存在を失っただけで、天的存在は失わなかった。、そして、失われたすべてのものは、失われたすべてのものを求め、救うために来た救い主によって買い戻されたのである。(ルカ1910

Perfect man
is not
a spiritual being.
    上記に加え、完全な人間は霊的存在ではないという証拠が私達にはある。聖書の教えに従えば、私達の主は、人間になるためにその栄光を捨てる前には神のかたちであった――霊的なかたち、霊的存在。しかし、人類のあがないとなるためには、人間とならねばならず、すなわち、その代りとして死ぬ罪人と同じ性質にならねばならなかったので、主の性質が変わることが必要であった。

   彼は、自分より一段低い性質である天使の性質をとらず、二段低い人間の性質をとった――すなわち人間になった。肉となった”――とパウロは私達に語る。(ヘブル216、ピリピ278、ヨハネ114

Jesus13A.jpg (4363 bytes)      このことは、天使の性質が、霊的存在の唯一の階級ではなく、主が人間になる前に持っていた性質より低い性質であることを教えている。主がその時に持っていた性質は、今の性質より低い――なぜならば、神は、人間のあがないとなるために示したその従順のゆえに、キリストを高く引き上げられたからである。(ピリピ289)キリストは今、霊的存在の中で最高の階級に属し、神(エホバ)の性質にあずかる者となったのである。    

完全な人間は天使ではない

このように、私達は、神、天使、人間の性質はそれぞれ区別されるという証明を得るのみならず。完全な人間になることは、天使になることではないという証明を得る。それは、完全な天使は神であり、従ってエホバであるということが出来ないのと同様である。

   なぜなら、イエスは天使の性質をとったのではなく、人間の性質をとったのであって、その人間性は、私達が現在見るような不完全な人間性ではなく、完全な人間性である。彼は人となった。すなわち、現在の堕落し、死んでいるも同然の人間ではなく、完全な力に溢れている人間である。

Jesus, being
a perfect man,
could keep
a perfect law.

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     繰り返すが、イエスは完全な人間であったに違いない。さもなければ、完全な人間の能力の計りである完全な律法をを守ることは出来なかったはずである。もし彼が完全な人間でなかったならば、完全な人間、アダムの失った命(アダムに相当する代価――Ⅰテモテ26)のあがないとなることはできなかったはずである。死がひとりの人によってできたのだから、死人の復活もまたひとりの人によって来なければならない。コリント1521

   もし、彼がほんの少しでも不完全であったならば、彼は有罪の下にあったことになるので、従って受け入れられる犠牲とはなり得なかったであろうし、また、神の完全な律法を完全に守ることも出来なかったであろう。完全な人間が試され、失敗し、有罪とされたのである。だから、完全な人間だけが救い主として、それに相当する代価を支払うことが出来たのである。

Only a perfect man
could give a
corresponding price
for a perfect man.
     さて、今度は、私達の前に別な形で問題が生ずる。すなわち、もし、肉にあるイエスが、聖書に示されているように、完全だったならば、それが完全な人間は天使ではなく肉的存在であり、天使より少し低い存在であることを証明することにはならないだろうかということである。

   その理論的誤解の余地がない。それに加えて、私達には詩篇の記事(詩篇85)とヘブル279でそれに言及しているパウロの論述がある。

 

 

 

 

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     イエスは、人性と霊性と二つの性質の合体ではない。二つの性質の混合は、その性質のいずれをも生み出さない。むしろ、神の取り決めとは相反する不完全な雑種を生み出す。イエスが肉にあった時、彼は完全な人間であった。その前には、彼は完全な霊的存在であった。そして復活以後は、彼は最も高い完全な性質、または神の階級に属する霊的存在となったのである。

   彼が神の性質の厳粛な遺産を受け継いだのは(マタイ31617)彼が死に至る献身――30才(律法で定められた聖人した人間の年齢)でバプテスマを受けたことに象徴される――した後であった。神の性質の保証を受ける前に、彼は人間としての性質を死にささげねばならなかった。

   そして、その献身が実際に実行され、その人間性が実際に死に至る犠牲としてささげられるまで、私達の主イエスは完全に神の性質にあずかる者とはなり得なかったのである。人間になった後、彼は死に至るまで従順であった。それゆえに神は、彼を神の性質にまで高く引き上げたのである。(ピリピ289

   もしこの聖句が真理ならば、イエスはその人間性を実際に犠牲にする、すなわち、死ぬまでは神の性質へと高められなかったことになる。

Jesus was not
a combination
of two natures.

Twice,
Jesus experienced
a change of nature.

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Jesus gave
an equivalent
for what Adam lost.

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"For such an high priest became us, who is holy, harmless, undefiled,
separate from sinners,
and made higher than the heavens." Hebrews 7:26

     このように、イエスは幾つかの性質の合体ではないけれども、性質の変化を二度体験した。すなわち最初は霊性から人性へ、次には人性から霊性の最高階級である神性へと変化した。どちらの場合も、必ず前の性質を捨てて、次の性質になったのである。

全世界の救いのために犠牲をささげ終るまで、世界の前に汚れなきものの規範を示した。この完全な人間性の実例の中に、私達は、アダムにあって人類はここから堕落し、再び完全性へと回復されるべきものを見るのである。

   私達の主イエスは、人間のあがないとなることによって、人間が失ったものと同等の価値を持つものを与えた。だから、全人類は、キリストを信じる信仰と、キリストの要求に従うことによって、再び霊性ではなく、栄光ある完全な人間性――それが失われたのだから――を受け取ることができるのである。

    完全な人間の完全な能力と力が、新しい様々な問題のために無限に用いられ、知識と技量が大いに進歩するであろう。しかし、知識や力がいかに進歩しても性質を変えたり、またはその性質を完全以上のものにするように働くことはないであろう。それはあくまでも完全な人間の力であって、それが拡大され発達するにすぎない。

   知識と技量の進歩は、人間にとって、永遠の祝福された特権であるには違いないが、人間はどこまで行っても人間であり、すでに持っている人間性の力をもっと完全に学ぶにすぎない。人間は、この広大な限界を越える望みを抱くことも、それを超えた進歩を願うこともできない。その願望は、人間の力の範囲内に限られているからである。

"There are also celestial bodies, and bodies terrestrial;
but the glory
of the celestial
is one,
and the glory
of the terrestrial
is another."
I Corinthians 15:40
     人間としてのイエスは、人類の大多数が回復されるべき完全な人間性の実例であったけれども、復活後のイエスは、勝利を得る教会がその復活に際して、イエスと共に分かち合う栄光ある神の性質の実例である。

現在の時代は主として、性質の変化を提供されているこのクラスの発達のために与えらえているし、また、使徒の手紙はこの小さき群を導くために書かれたのだから、この選民の完成で終る神の計画が妨げられてはならない。また一方、私達は極端に走って、神の性質、霊の体などの特別な約束が、すべての人類のために考えられた神の計画であると考えてはならない。

   それらの人々に与えられた尊い大いなる約束は、すべての人類になされた他の尊い約束より、はるかに優ったものなのである。真理の言葉を正しく識別するためには、私達は、聖書が小さき群における神性の完全と、回復される全世界における人間性の完全とを二つの異なったものとして区別していることに気がつかなければならない。

What is
a spirit being?

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     さて、霊的存在とは何か?その力とは何か?その力とは何か?それはどんな律法によって支配されるのか?をもっと詳しく調べてみよう。多くの人々は、霊的存在の性質を理解しないために、これを単なる神話とし、また、この問題に関して多くの迷信が普及しているようである。しかし、パウロは、そのような概念を抱いていない。

   パウロは、人間には人間より高い霊性を理解する能力がない(コリント214)ことを暗示しているが、しかし、神話的、迷信的概念を防ごうとするかのように、人の体はもちろんのこと、霊の体がある。すなわち、他に属する体はもちろんのこと、天に属する体もある。地に栄光があるのはもちろんのこと、天に属する栄光がある、と語っている。

   地上の栄光は、私達がすでに見て来たように、アダムの最初の罪によって失われたが、千年時代の間に主イエスとその花嫁(頭と体を伴うキリスト)によって人類に回復されることになっている。天上の栄光は、聖書の御言葉を通して霊によって信仰の目に示される以外にはまだ明らかにされていない。これら二つの栄光は、はっきりと区別されている。(コリ